古徽州文化観光区は徽文化の発祥地である安徽省黄山市に属する。徽州古城、牌坊群鲍家花园、唐模、潜口民宅、呈坎五つの最高観光エリアによって形成されている。北には黄山、南には千島湖と隣接している。...【詳細
 
 
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徽州における主な風習習慣について

徽州方言はどうやって形成されたのか

古徽州は移民地域であり、北方から来ている移民者は中原にある音声を徽州に持ち込んできて、そして、長年の歳月を経て徽州方言になり、徽州方言のなりゆきでもある。徽州方言には古い言葉が数多く保存されており、古文をそのまま延用したという。例えば: “先”(先和)、“种种”(短)、“造化”(幸运)、大郎(哥哥)など。
中原からの移民はそれぞれ違う時間に違う場所から集まってきて、それに中原言語本来自身も異なり、徽州に入ってきた後、当地の音と混じり合い、自らの音声になったのである。徽州は丘陵山地であり、交通不便なところがあった。しかし山を隔てていながら交流できず、河を隔てていながら往来できず、即ち各県によって自ら当地ならではの方言を作り上げたとのことである。更に徽州は地理上では皖(安徽)、浙(浙江)、赣(江西)三省の境となる所で、各種の方言はお互い浸透しやすい環境にあった、特に徽商の頻繁往来によって、徽州方言に更なる複雑な影響を与えていた。六つの県ではそれぞれ違った方言を使い、お互いに通じないという結果になった。

徽州人の飲食風習
一、食
通常はお米、トウモロコシ、小麦を主となる。お米の場合は粘りのない籼米を好んで、粘りのある粳米を好まない。籼米と糯米を粉状にして米粉というものになり、その米粉で米錁といった伝統的な食べ物にする、更にゴマや、カボチャ、野菜、ヨモギなど揉み込むことによって、一年中に彩りな米錁を楽しめられる。時には木で原形模型を使い練ったものを中に入れ込むと動物や花模様形の米錁の形成にもなる。更に“福、禄、寿”といった文字入りの米錁を作ったり、時に色んな色で点染したり、時にお祝いの言葉を入れて作ったりする。米錁を水に浸ってて保存する、食べたいときに食べる分量を取って食べる。調理法として、焼くことや炒めることや煮ることもできるので大変便利で特色のある地方食品でもある。郷米は一般的粉にし、トウモロコシ糊、トウモロコシ錁、石錁などに入れて食べる。小麦の場合もよく粉状にして、ヌードル、塌锞、緑豆兜、ワンタン、ギョーザで食べる。雑穀の場合は、コーリャン、粟、大豆、イモ類、瓜類が多い。

二、料理
徽州人は普段良く食べる野菜は:インゲン、糸瓜、ひょうたん、青梗菜、ナス、ピーマン、ヒユ、韮、カラシナ、レタスなど挙げられる。山菜は徽州人にとって大変好む料理の一つである。特に蕨は“山菜の王”と称される。たけのこも山地区に住む人々にとって欠かせられない山の幸である。それ以外シイタケ、きくらげ、ウコンキスゲ、コヨナメ、ナズナ、スベリヒユなどを好む山菜の種種である。徽州人がよく食べる肉料理では:鶏肉、魚、肉、卵そして川魚、蝦、亀、スッポンなどである、特に徽州イワシャコ、徽州くわ魚、メダカ、斑鳩といった貴重なもの物もある。それに、徽州団子、徽州毛豆腐、徽州青螺などの料理は徽州地区では特色のある料理とでも言える。

三、おもてなし
「東南邹鲁と礼儀の国」で称される徽州では、お客を重んじることが大変重視とされる。お客がご来訪の際に、まずお茶を出しその後、ゆで卵を三つ食べさせるという。これらの過程を経てからお客とお茶を飲みながら歓談する。料理をご馳走する時にもそうである。通常は四つの前菜と五つの炒め料理と四つのメイン料理それにスープ類を出される。料理を出る順も大変こだわりがあり、まず前菜から始まり、それから鶏肉料理、その次炒め物料理、その後デザートか点心、それからメイン料理とスープ、最後は魚料理という。この順番の俗名は“鶏頭魚尾”という意味である。宴席を始める時に、まず家の主人から祝杯を挙げる、それに続きお客さん同士と乾杯する、お酒を勧める時に必ず杯と杯をぶつかり合い、音を出せばよいとされる。飲むときも必ず一気に飲み干すこと、飲み干さないと杯を戻すことが許されない、飲み干した場合は相手に見せるといった習慣がある。徽州人はもち米で自家製「土酒」を作る、お客をもてなすときに、自家製「土酒」を温めてからお客に出す。

 

徽州における主な風習習慣について
徽州社会は東越から山越へ、新安から徽州へ、その長い歴史の長流の中で、徽州風習は一体何種類のものがあるのか、それぞれの特徴や表現形式はどんなものなのかについてまだまだこれから追求していく課題である。徽州風習を7種類と分類する方がいる。即ち社会民俗、物質民俗、礼儀風習、歳時風習、民間芸術、民間信仰、民間文学である。また徽州風習を7種類と分類する方もいる。即ち生活風習、礼儀風習、時節風習、民俗遊戯、民歌、民間伝説、民俗信仰、民間組織である。更に、生産民俗、飲食民俗、服飾民俗、住居民俗、行旅民俗、田舎と都市民俗、人生礼儀、婚姻民俗、葬祭民俗、歳時祝日民俗、民間信仰民俗、民間文学などと分類する方もいる。民俗事項は多種類のため未だにはっきりとした決まりがない。ここでは一部の内容を取り入れて簡単ながらご説明していただく。

一、建物風習
古徽州の建物は大変ユニークな伝統風習がある。田舎では家を建てる際「風水」にこだわることが多い。家の正門を煙突に向けさせることはタブとされる。万が一その場合になったら門の上に鏡とはさみをぶら下げておくこと、即ち「解煞」という意味である。又大通りは家の前にあることもタブである。徽州民居はまず大工に立屋架(家の骨組を立たせること)から始まり、その後、瓦や壁などを作ること。立屋架を立つ日は大変めでたい日とされ、親類や友達がお祝いに来ることは一般的である。屋架の真ん中にあるのは正梁(梁の支え)というもにも独自のこだわりがあって、伐採の時に、ローブで木を回し引っ張り木馬に乗せること、決して地面に触れて置くことが許されないのだ。屋根上に上げる時に、まず正梁を赤い布を被らせ、両端には金色の花を飾らせる、人は正梁の上を通る事は絶対にだめである。その後祭典では、正梁の前に豚の頭、魚、鶏肉とその他の供え物を置く、家主は線香を差し上げてから大工さんは雑穀を撒きながら祝福の呪文を唱える。手に酒ビンを持ち四つの方向に向かいながら祭霊する。儀式終了後、供え物を撤去し、爆竹の音の中で正梁を家の真上の屋根に揚げていく。大工さんやみんなの祝いの喝采の中で終了する。当日には屋根の瓦を全て完成させなければならないという。徽州民居の屋根の下とドア、窓の上には小屋根がある、「短屋根」とも言う。ほとんどの家には「天井」を設けてある。3部屋の場合は応接室に「天井」がある、四合院の場合は真ん中に設置することは一般となる。このような設計の理由は部屋中に十分な光線が入り込むことができるからと空気の流れがすらすらと進めるからにある。しかし、不十分な点もある、それは冬は寒い、雨天は湿るところである。「天井」の設計は徽商との大変大きな関わりがあるという。商売人は富を外へ流れていくことを防げるため、天井を作り上げたのである。水は金を象徴し、雨天には屋根から流れていく雨水を天井の中に溜まりこんで外へ流れることも避けるような工夫である。その名は“四水帰堂”、即ち肥える水は别人の田に流れずという縁起の意味である。徽州民居の屋上の周りは塀で囲まれ、所謂“马头墙”(馬の頭の形に似た壁のこと)である。内部構造として入り口は前庭といい、真ん中は天井を設け、後ろはリビングである。リビングの後ろのところには中門によって隔てられて、中は二つの寝室を用意する。リビングルーム一室とペットルーム二室といった構造となる。その後ろには又马头墙があり、壁の隣に天井で、両側には客室がある。これは「第一進」と言う。「第二進」は、一つ部屋に二つのリビングルームがある。前後には天井を設け、中には屏風があり、ペットルーム四部屋と休憩室二部屋といった構造である。「第三進」「第四進」或いはその次の構造としてはそれに似たものである。

二、私家園林
徽州の私人園林は全て地形によって作られたものだ。布局は巧妙で、園林には池、築山、木、花、亭、楼閣など配置し、独自な空間を生み出された。室内には古雅な飾りがあり、正堂には掛け軸、対联があり、板壁には四枚の条屏があり、八仙机(1辺に椅子が2脚ずつある、8人 掛けの正方形のテーブル)、太师椅(旧式の木製ひじ掛けいす)など、どれも優雅なものばかりである。更にお金もちの家では所々には精緻な木彫装飾が施されている、特に梁の支え、窓、阑子門などの木彫が一番ユニックである。上堂檐口の両柱の図模様は主に左側には“松鹤図”で、右側には“椰鹿図”と彫刻されることが多い、図は
透かし彫りで立体感の強いものである。阑子門の上に“麒麟遊鳳”、“鹤舞雄狮”、“喜鹊(かささぎ)登梅”、“百鳥啼鳴”、“錦鶏蚺(ボア)遊”、“花鹿呈祥”などの模様が多く施される。又“寿”、“福”、“萬代栄華”、“竹繁松茂といった文字で彫刻する場合もある。更に人間物語をテーマにした彫刻も見かける、その精美な彫刻技術や巧みに人々を魅了する。
徽州の私人園林は宮廷園林ほど規模が広くないが、しかしその素朴且つ典雅なところは一つの見所でもある。園林の全体輪郭ははっきりしていて、規則のないところから、園林にいる時余計広く感じさせる。しかし外にいる人は局部しか見えないため、極めて奇妙なところである。

徽州民俗の特徴及びその成因
徽州にある様々な参考資料から徽州社会の環境状況によって徽州民俗が成り立ったという事実がわかった。その特徴は三つある。

一、同族同士による定住
趙古士は《寄園寄所寄》の中にこう書いてある、“新安では各族は同姓同士によって定住する、決して雑姓などを交えず、この風習は古代に近いものだ、この村では出門の際には年輩者や長者に譲り合うことが常識である。苗字は宗祠によって統括する、年末や祭日などには同じ同宗同姓の人々が千人上集まる。盛大な礼儀で先祖を祭る。伝説によると新安には沢山の風習が他の地区より勝ること。千年以上のお墓は依然保存されてある。千人以上の族群は決してバラバラに暮らさないこと。千年続いている今全く混乱する気配がない。”徽州府所轄内にある社会組織は全て厳密な組織性と持久性のあるものだ。“黟県は山道が険しく河流の流れも激しい、一番人口の多い族群は千人しかいない、少ない族群は只の百人くらい、各族群は互いに宗祠を建設し、様々の行事を宗祠で行われるものである。
このような行事は庁厦と呼ぶ。民風純朴、族群の人が多い場合は更なる分宗祠を作ることも可能である。お金のある家はお金を宗祠へ寄付することもある。”という。“績渓も同姓同士によって住居する、千年以上のお墓があり、万人以上祭られる宗祠があり、宗祠には百代及び族譜がある。”という。《歙県志》によると、“親戚は数多くて、六朝唐宋時代以来千年以上続いている族群が沢山ある、宗族間の関係を重んずる、世代友好、村の人々がお互いに祖祠を作ること、年末の時に全員先祖を祭る。貧しい人もこの地域で代々暮らし、どんなに貧しい人でも子供を売ったり、他郷へ行ったりはしない。”という。《休寧県志》には重宗誼、聚族居という変化過程の中では朱熹の影響が大変大きいと記載されている。
“同姓同宗が集まって暮らし、千年以上この土地を守り続け、そのまま代々伝わり乱れなど全くないこと、それは他の名郡など持っていないところでもある。これはまさに教育を重んじるから生まれた結果ではないのか”という。

二、尊文重教
隋唐以前では、徽州の先人は「体力で郷土を守る」といった思想だった。およそ黄巢の乱以降、中原士族は避難のために徽州に辿り着いてから大きく変わったのだ。「文雅なものを好み、宋の時代では数多く名臣が輩出した、多数の御史と諫官がいた。朱子以降に出世の方がみんな義理学を理解する。東南邹鲁と称される」といった言葉が残された。学問を重んずる風習はどの家にでも強く影響されたという。だから、文化は風習を大きく影響したことからその間にある深い関係がわかる。更に儒学の流行によって風習習慣一層優雅化になり、元来粗野的、原始的な習慣を徐々に優雅的、礼儀的に変わりつつあった。儒家の道徳規範も次第に徽州人に受け入れられ崇めるようになった。もちろん、それは徽州人の学問重視である伝統と中原望族の末裔が沢山いることとは切り離せないのである。

三、徽州風俗の内容多彩、玉石混淆を免れない
徽州では陋習も数多く存在している。「陰陽に拘りすぎ、」のような悪風習がある。子孫代々順風満帆であるようにお金持ちの家はみんな風水を重んずることになる。時間、家を建てる時の位置、墓地の位置など全て占いで行われる、所謂迷信とも言える。特に墓地選択と墓地保護に一番重視とされる。必ず風水師によって死者を埋葬することである。歴史上では風水宝地をめぐり宗族間で大きなトラブルも起きていた。一つの墓地を競った結果、家を破産したまでという。それ以外、迷信への没頭、鬼神などを信じるなどの陋習によって古徽州社会に大変消極的な影響を与えていたことは事実である。

総じて言えば、徽州民俗の形成及び発展過程は文化交流と文化批判が同時存在する過程とも言える。山は高く岭は険しいし、陸は閉鎖的である。一方、水路は開放的であるため、徽州人は内緊外弛の性格を作り出された。徽州人は山のように信念が固いし、渓流のように山暮らしの生活に耐えられず、外の世界へ飛び込もうとする。だからこそ高移民地域である徽州は千年間社会風習を兼収しながら古風である。宋代羅愿の《新安志•風俗》の中ではこう語っている“黄巢の乱,中原の民門望族が避難するためにここに来て、その後残って暮らす人もいるし、去る人もいる。しかし彼らの到来によってここは文雅になりつつある、宋代において名臣が沢山輩出した。”ここでの“俗”は単なる中原からの風習が移ってきたという意味ではなく、当時この地にあった風習と混じり合いながら形成されたものと考えられる。今日我々が暮らしている徽州でも山越民風も依然としている。古い舞台、山越麻繍、山神を祭ること、山民紙服を着ること、叠羅漢、板凳龍など民俗文物と民俗活動は今でも山越に残りしつつある。しかし、唐宋時代以後、徽州風習と外から来た風習の差違が益々小さくなり、“益向文雅”(文雅化に変わる)。徐々に中国文化思想を控える儒学と近づくことができた。即ち朱子家礼を基に徽州独自の民風風習になった。

徽州ではどんな婚姻風習があるのか
徽州の婚姻風習はいいなずけである、つまり終始一貫の論理観念は強い。一般的に九つの過程があるという:請媒(仲人を雇う)、行聘(聘金を支払う)、請期(婚期を決める)、搬行嫁(荷物を運ぶ)、開顔(顔を洗う)、迎親(花嫁を迎える)、拜堂(結婚する)、闹洞房(新婚夫婦の部屋で遊ぶ)、回门(花嫁花婿は初めて実家に帰る)。各県によって異なるところもある。地方によって行程の呼び方も違う。
男女ともに13、14歳になると仲人の方が家に出入りすることになる、女の子の年庚八字(生年月日)などを男の子の家へ送って、お互いの年庚八字合っているかどうかを嫁命倌(占いの人)に見てもらうこと。合っている場合は“合八字”という。行聘(聘金を支払う)は“送担”という。女家は聘金をもらった当日にお礼を返さなければならない、これらの行程を終了したら婚姻関係を結んだという。その後、男家は決まった結婚日を知らせておくことは“請期”という。花嫁を迎える前日或いは当日の朝、男家は女家にある花嫁の荷物を運ぶこと。結婚前夜、男家は宴席を開き、仲人は上座に座らせてから親族は順番に座ること。宴席終了後男女双方の利市人(両家の親族)は“紅鸾庚帖”(八字帖)の上で結婚時間を記入する。花嫁を迎える当日、父親側のおばさんによる開顔をする(二本の糸で花嫁の額にある毛を抜け取る作業)
結婚当日、花婿は必ず花嫁の実家へ迎えにくる。到着したらまず閉じている花嫁の実家のドア前に立ち、そのドアから“米饭钱”、“尿布钱”(お金)を渡すこと。ドアを開けられたら、部屋にいる母と娘が“哭嫁”(泣くこと)する。離れることを惜しむという意味である。三回目の爆竹の音が鳴り終わると、花嫁はみこしに入り、花婿の家へ向かう。花婿の家の前に到着後、花婿は花嫁をおんぶして家に入ること。それはもし夫婦喧嘩になった場合は女家の方が自ら歩いてきたわけではないと言い返せるという意味である。歙県の風習ではみこしから降りてくるとまず拜堂(男家のご両親は上座に座り、花婿花嫁からの挨拶を受けること)をする。黟県の風習ではみこしは男家に到着すると、まず二人の青年が布袋を地面に敷き、花嫁はその布袋の上を歩くこと。それは“傳代”という音を取って、つまり、子孫代々繁栄するという意味である。花嫁はいったん部屋に戻り、少し休憩してから拜堂を行うこと。
闹洞房(新婚夫婦の部屋で遊ぶ)は“撒帳”と“吵新人”である。招待されたお客は花嫁と花婿を苛めたり、遊ばせたりすることができる。
結婚二日目は先祖を祭る宗祠へ挨拶しに行く。三日目は花嫁は花婿と共に女家へ報告しに行く。それは“回門”というものである。歙県などでは結婚三日目、四日目に女家のご両親を呼んできて招待することもある。それは“望朝”というものである。五日目、六日目に花嫁の実家へ回門するといった風習がある。

 
 
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